かわいそうなわたし

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自分がいかに可哀想なのかをアピールしてくる人がいる。
みんなが同じような状況でもなぜかその人は自分だけが特別可哀想だと感じている。
だからいつも「聞いてください、わたし可哀想なんです、可哀想って言ってください」と話を始める。

私は他人から可哀想と思われたいか、と問われれば迷わず否と答える。
状況を知って共感しようとしてくれるならまだ理解出来る。
でも、ただ反射のように「かわいそうだね」という言葉をかけられるのは憐れみが含まれているようで嫌な気分になるだろうと思う。

だから私は笑い話でもない限り、相手に向かって「かわいそうだね」とは言えないし言いたくない。

”かわいそうなわたし”アピール

他人に”かわいそうなわたし”をアピールして肯定させる。
この行動によって得られるものは何なんだろうか。

他者からの関心を集めたい?
かわいそうな自分に酔っているだけの自己満足?
何かしらで周囲より優位に立っていると実感したい?
ただ単に人と話すきっかけとして利用している?

目的は分からないけれど、私からしたら面倒臭い以外の何者でもない。

だからそんな話をされるたび、私の耳は情報をシャットアウトし始める。

いったいこの人は何を求めているのだろうか。
なんと声をかけて欲しいのだろうか。

悪いあの人、かわいそうなわたし

幸せになる勇気という本に「悪いあの人、かわいそうなわたし」というパートがある。

人は人と語らうとき、自身の身に降りかかった不幸(かわいそうなわたし)か、自分の周りの不幸(悪いあの人)のどちらかに話が終始する。
だが、語り合うべきはそれらではなく「これからどうするか」だ。

これを読んで、はっとした。
確かに意識してみると、人の話なんて大抵どちらかだし、過去の私自身が「悪いあの人、かわいそうなわたし」を発動していたからだ。

結局、悲劇のヒロインになろうとしていたのはみんな同じだった。

私も身近な人に依存していた。
親、兄弟、友達…
何の努力もせずに、不幸を嘆いては正論で返される。
今考えれば当たり前だが、当時は理解しようとしてくれない相手にさらに怒っていた。

そして同じ状況を目の当たりにして嫌な頃の自分を思い出す。
だからこそ余計に”かわいそうなわたし”アピールをする人を苦手に感じていたのかもしれない。

可哀想からの脱出

過去に悲劇のヒロインぶっていた”かわいそうなわたし”も、今では事実に気付くほど現実に戻ってきた(と自分では思っている)。

それは悲劇からは何も生まれないということを嫌というほど体感したから。
嘆いても嘆いても人生は何一つ変わらなかった。
周りから腫れ物扱いされて、むしろどんどん可哀想になっていったから。

「幸せになる勇気」にある通りこれからどうするかを考えることが大切だと経験したから。

と同時に、そういったマイナスな発言に対してどう返せばいいか、何を考えているのか真剣に悩んでいた私だが、本の中で解決策を見つけた。

それは聞き流すこと。

真剣に受け取る必要がないことに時間や感情を使わない。
他人からの無作為の可哀想に影響されないようにするには、心を持っていかれないよう自分でコントロールすることもまた重要だと分かった。

そうやって、今後も自分と他人の可哀想から意図的に脱出していこうと思う。

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