愛想をふりまく女

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愛想って必要なのでしょうか。

社会生活においては他人との共存が必須です。
なので私は今日も通常運転で愛想をふりまいて生きています。

でもだからといって、望んで愛想を振りまいているのかと問われるとそうではないのです。

コミュニケーションの属性

愛想をふりまく属性かそうじゃない属性かを教えてくれるのが日々のコミュニケーション。
私はこっち側の属性として、あちら側の属性の人たちを心からうらやましく思います。
相手に惑わされず自分を貫くあちら側の人間に憧れます。

それなのに、愛想をふりまき続けてしまうのです。
なぜなのでしょうか。

私は、愛想をふりまくことはコミュニケーションの一部だと思っているからです。
相手の会話に合わせて反応する、場の雰囲気を壊さないようにする、相手が気持ちよく話せる環境を作れるよう努める、テンションを合わせる……

私のオーバーな反応はこれらの信念を基に振りまかれています。

自分ではない自分

世間一般から見れば、きっと媚を売っているようにしか見えないでしょう。
相手の立場によって愛想を使い分けられれば、立派に媚を売ることになるのでこちら側にもメリットがありますね。
そんなことが出来るのであればこちらも苦労しません。
でもそんなに器用なことが出来ないから困っているのです。

愛想をふりまくことのなにが嫌って、そこに自分が存在しないことです。
相手やその場の空気を優先しすぎて、自分の存在を自分で抹殺しようとすることです。

興味もないのにオーバーに反応する自分を客観視して、ああまた猫をかぶっていると感じたり、自分に嘘をついているように思ったり。
ましてや、話を聞いてくれる人だと思われて、当たり前のように時間を奪われることもあります。
人と関わることが億劫になります。
人との関係を拒むかのように自分の世界に閉じこもりたくなります。

”愛想ふりまき女”から抜け出したい

社会の一部として、人との関わりは切っても切れないものです。
だから、心の中の自分を守るためには何か対策が必要です。

それが、愛想ふりまき女である自分を肯定することなのかもしれないと思っています。

望んでしていることではないけれど、それでも円滑なコミュニケーションをとろうと努める自分。他人の話をよく聞いてあげられる自分。

そうやって今の自分を変えずに肯定する。
自分の行動は自分が選んでいる。
であれば、行動の結果も自分で引き受けられるように受け取り方を工夫すればいい。

そう思うだけで、他人に乗っ取られたようだった自分を取り戻せるような気がする。

自分で自分を嫌いになりたくない。
自分を好きとは言えなくても、自分だけは自分を大切にしてあげたい。
だから、私は自分を肯定するために考え方の角度を少しずつ変えていくのです。

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